食べ物記者 齋藤訓之

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サンタクロースっているんでしょうか?――います

サンタクロース

サンタクロース

 人の頭を解剖しても、「心」は出て来ない。心臓を解剖しても、「循環」は出て来ない。心は脳の機能、循環は心臓の機能。その心と脳、循環と心臓、それぞれを分けて考えて「おかしい」と騒ぐのはおかしい――養老孟司氏が「唯脳論」にそのように書いている。

 ついでに、物か物でないかは案外難しいとも。「解剖学実習で、『肛門』だけ切り取って重さを測れ、と言われた学生は、よく考えると、往生するであろう」とは、いかにもこの方らしい含蓄のあるワルノリだ。

 見える物と、見えないけれどもあるものとがある。それについては、こんな指摘もある。「丹田は、生きた人間が身を正しく保つときに現成する中心の座であって、特定の対象的なモノではないから、死体を解剖しても丹田は発見されない。これ、対象認識に偏する西洋流の学問からはついに掴まれなかったゆえんであろう」(佐藤通次「姿勢の哲理」――大森曹玄「参禅入門」より孫引き)

 たまたま、こういった本を間を置かずに読んだせいか、ある真理とたちの悪い偏見を同時に得た時期があった。真理とは、目に見えるものだけが「ある」のではないということ。偏見とは、そうであるにもかかわらず、西洋の人々は目に見えるもの以外を軽視する傾向がある、ということ。

フランシス=P=チャーチ 著、中村妙子 訳、東逸子 絵『サンタクロースっているんでしょうか?』偕成社、1986年10月

 その偏見を氷を解かすように崩し去り、くだんの真理を力強く補ってくれた本が、「サンタクロースっているんでしょうか?」(偕成社)だ。

 100年前のニューヨーク。ある新聞社に質問の手紙が届いた。友達が「サンタクロースなんていないんだ」と言うのに当惑した8歳の女の子バージニアが、父親のアドバイスで記者に「サンタクロースって、本当にいるんでしょうか」としたためて送って来たのだ。

 記者は社説で答える。目に見えるものしか信じない疑り屋がそう言っているのだろうと。彼らにはわからないことがたくさんあり、自分にわからないことはみんなうそだと決めているのだと。

 さらに、人にわかることは限られている、宇宙に対して人間の知恵とは実にちっぽけだ、とも。また、「そのひろく、またふかい世界をおしはかるには、世の中のことすべてをりかいし、すべてをしることのできるような、大きな、ふかいちえがひつようなのです」と続ける。

 そして、たとえサンタクロースを視認できないことが証明されても、それはサンタクロースが存在しないことの証明にはなり得ない。むしろ、この世でいちばん確かなものは、誰の目にも見えないとまで言う。

 社説子が8歳の子に諭したのは、般若波羅蜜多(彼岸に至る最高の智慧)ではないか。

 そう、サンタクロースはいる。

 明日、デパートにこっそりクリスマス・プレゼントを買いに行く、うちの子供の祖父母がサンタクロースなのではない。24日の真夜中、子供の枕元にそのプレゼントをそっと置く私や妻がサンタクロースなのではない。そしてもちろん、サンタクロースがいないのでもない。

 サンタクロースはいる。この世で最も確かなものの一つとして。今月は、彼の存在をじっくり全身で味わいたい。

 こういうのもある。イエス・キリストの言葉。

彼の弟子たちが彼に言った、「どの日に御国は来るのでしょうか」。彼が言った、「それは待ち望んでいるうちは来るものではない。『見よ、ここにある』、あるいは、『見よ、あそこにある』などとも言えない。そうではなくて、父の国は地上に拡がっている。そして、人々はそれを見ない」(荒井献「トマスによる福音書」

 これはバチカンからは異端とされているグノーシス派の福音書だけれども、「ルカによる福音書」にも、ほぼ同じ記述がある。曰く、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と。

 天国もまた、いまこの時、全身で味わうべきものであるらしい。

才市どこが、浄土かい。
ここが浄土の、なむあみだぶつ。
(浅原才市「大乗相応の地」――鈴木大拙「日本的霊性」より孫引き)

娑婆は夜明けで、上ど(浄土)のよあけ、
あけてたのしむ、なむあみだぶつ。
(同)

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