食べ物記者 齋藤訓之

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「ユダの福音書」に迫る自由と迫らない自由

[caption align="alignright" width="150"] 「ナショナル ジオグラフィック日本版」2006年5月号[/caption]

 「ナショナル ジオグラフィック日本版」2006年5月号、本日発売。「ユダの福音書」文書がたどってきた数奇な運命が書かれている。なかなかにスリリングな経緯で、近刊「ユダの福音書を追え」が、物語として面白そうな期待をかきたてられる。合わせて、保守的なキリスト者の反応、新約聖書やさまざまな外典の成立の解説などが載っている。

 保守的なキリスト者から反発や不快感が示されるのは当然のことだ。これは個々のアイデンティティにかかわる問題で、誰もが注意深く対処していくべきだ。

 ただ、新約聖書という文書は、後世の人によって選ばれた文書であるということは誰もが銘記していいはずだ(誠実な教会はその経緯を包み隠さず教えている)。

 今日のカトリックはいくつかの外典を採用しているが、多くのプロテスタントは旧約聖書と新約聖書のみを聖典としている。いずれにせよ、信者がある限られた文書だけをよいものとするその判断は、合理的科学的な判断である必要はなく、それぞれの教会に(あえてイエス・キリストにとは言わない)対する帰依を告白するそのことに過ぎない。その帰依は、もちろん誰からも意見されるべきものではなく、むしろ敬意を払われるべきものだ。

 そして他方、イエス・キリストその人の存在と言説は、今日のキリスト教諸教会だけのものではない。キリスト者であるとないとにかかわらず、どの教会に属していると属していないとにかかわらず、誰もが彼のことを調べ、考える自由を持っている。そのうちの誰かが、教会が選んだ以外の文書や史料からイエス・キリストに迫ろうとするその意思と活動もまた、誰からも意見されるべきものではなく、むしろ敬意を払われるべきものだ。

 私個人について言えば、今日現在、どの教会にもかかわることなくイエスのことを調べたり考えたりできることを感謝している。受洗を考えていた十代の頃よりはるかに、彼のことが好きだし、いろいろなことを考えさせられる。

 さてさて。これを読んだあなたがキリスト者だとして、私がこんなことを書いていたり、「ナショナル ジオグラフィック」に何か載っていたりすることなどで、動揺する必要など全くない。断じて。私が尊敬する神父、牧師、信者――彼らは、たとえ教会がなくなっても、信仰にはいささかの影響もないと考えているはずだ。

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