食べ物記者 齋藤訓之

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入澤繁のこと

 電話があったのは1988年11月21日。就職してからほとんど土日もなく働きづめで、その前の土日もきっちり働き、やっと一段落着いた月曜日だった。もうへとへと。翌22日火曜に有給休暇というものを取得して、23日の勤労感謝の日と合わせて2日間、久々に羽が伸ばせると、うきうきしながらアパートに帰ってきた。暗い部屋の片隅で、留守番電話のランプが点滅していた。

 大学の同じクラスの友人からだった。

 あの頃、私たちの大学の文学部国文学専攻にはゼミというものがなく、友人ができる場というのは主に所属しているサークルか、同じ専攻の学生で構成するクラスだった。春、その友人たちと、卒業式で「じゃあ」と言って8カ月。今にしてみれば、親しい友人でも1年2年合わないことはざらだけれど、その時、それまで4年間毎日のように顔を合わせていた相手が8カ月ぶりに電話を掛けてきたというのは、とてつもなく懐かしいことで、半面、それだけで何か異常を感じさせるものだった。

「今日、連絡がありました。入澤繁が亡くなったということです。繰り返します。入澤繁が亡くなりました」

 コンビニ弁当を袋から取り出しながら再生した友人の声はうわずり、緊張し、内容に合わせてのことなのか、他人行儀で事務的だった。感情を抑えるには、そんな風に吹き込むしかなかったのだろう。

 入澤は、同じクラスの友人だ。入学式の日、クラスで初めて言葉を交わしたやつだ。通称イリちゃん。丸顔で、体も丸くて、いつもにこにこしていた。

 二浪しているので、年齢は私より一つ上。他の多くの友人たちからは二つ上。すぐに、クラスの楽しい兄貴的な存在になった。みんなが入澤のことを好きだった。

「街を歩いていてもつい摺り足になっちゃって、つまずいちゃうんだよね」というぐらいの、熱心な柔道家だった。

 何年生かのとき、横浜の実家を出て、大学のそばのアパートで自炊を始めた。後にはスクーターを買ったけれど、その最初の頃は自転車に乗っていた。乗り慣れたロードレーサーで、丸い入澤がまたがると、いつもと違ってスマートで颯爽として見えた。でも、それをゆっくり転がしているところが似合った。

 怒って「ばかやろう」と言うときも、顔は笑っていた。生まれてこの方、人を恨む、呪うなんていうこととは全く縁のない、いや、嫌う、厭うということさえ知らなかったのではないかと思わせるほど、とにかくいいやつだった。

 浮世離れした人だったのではない。勉強に悩み、進路に悩み、恋に悩み、いろんな悩みが普通にあった。ただ、その悩み方が、聞いていてこちらが楽しくなるほど、明るい悩み方だった。悩むことはあっても、困ることはなかったのではないかな。

 片思いのように惚れている女の子の話をしていたことがあった。入澤のアパートに遊びに行くたび、みんなで、「ね、その某ちゃんと、それからどうなのさ」と聞いては、いついつどこで逢ったというような話を照れくさそうに、うれしそうに話していた。端で見ていて歯がゆいほどの奥手で、恋愛が一向に進展しない。それで、あるとき私が「某ちゃんてさ、実は架空の人だったりして」と言って茶化した。いつものように、「ばかやろ~!」と笑顔で否定していたが、ちょっと泣きそうな顔だった。ごめん。本当にごめん。

 3年の夏だったか。函館の私の実家に遊びに来てくれたことがある。やはり入学式で初めて話をしたもう一人の友人と、北海道の学校で教育実習をする前だった。車であちこち案内したとき、「碧血碑」の前で空を見上げてポーズを取った写真がある。

 卒業後、神奈川県の農業高校の先生になった。生徒に人気があったという。確かめたわけではないけれど、入澤が人気者にならないはずがない。

 11月下旬の週末、同僚の先生とスキーに行った。その帰り、その先生が荷物を置いて来た後、入澤のアパートで一杯やるはずだったらしい。食べ物など買って、入澤の部屋の戸をたたいた。ところが返事がない。疲れて寝てしまったのだろうと、買ってきた包みをドアノブに下げて、帰ったという。

 翌日、入澤が職場に現れない。確かめにいったところ、彼は冷たくなっていた。風邪をひき、肺炎を起こしたらしい。元気な姿しか人に見せたことのない入澤には似合わないあっけなさだった。一人でひっそり逝ったというのも、やつらしくない。若さもしかり。なんだよ、ばかたれ。

 留守番電話を聞き、電話をくれた友人に電話して、だけどとにかく頭の中はもう、何がなんだか分からなくなっていた。

 混乱、動顛しながら、ばかなことを思い付く。私は当時杉並区に住んでいたのだけれど、八王子の友達に電話して、斎場のある大船まで車で連れて行ってくれと頼んだ。電車で行けただろうに。帰りの電車を心配したのだったか。それなら、タクシーで帰って来たっていいのだ。金額は莫大でも、そんな時は金の使いどきだ。いや、当時は友人たちと較べても、想像を絶する薄給。しかも、給料日前のことで、本当にすっからかんだったのかも知れない。いや、間違いない。

 いずれにせよ、八王子の友人を困らせるまでもなく、翌日の通夜に出ればいいのだ。

 でも、どうしても、その夜のうちに行きたかった。なんとしても。

 ところが、車の友人、人が来ているからすぐには出せないという。それでも、夜半には出してやってもいいと言ってくれた。その人、せっかく、生きている友達と会っているのに、迷惑な頼みをしたものだ。よく聞き届けてくれたと思う。

 何時にどうしたのか、途中をよく覚えていない。でも、斎場に着いたのは、明け方5時か6時だった。なんてこと。これなら、朝電車で来ればよかったのだ。

 棺のある部屋で、母上がついていた。

 大学のクラスの者ですとかなんとか言って、棺に向かって手を合わせた。

 ひどい時間なので、いろいろ話をするのもはばかられ、夜中に車を出させて不機嫌そうな友人が外で待っていることもあり、早々に失礼した。

 たしか23日が葬儀。鳩の放鳥というのがあって、たくさんの鳩が一斉に飛んでったのを見て、そのときやっと涙が出てきて、わーわー泣いた。

 帰りにクラスのみんなで、入澤のアパートの前まで行った。ベランダの曇りガラス越しに、まだ生活感のあるものが見えて、「あそこで寝たり起きたりしてたんだね」って話したっけ。

 でも、失敗だった。

 無理を言っても、棺の小窓を開いてもらって、入澤の死に顔を拝んでおくんだった。あれから19年、どうしても、入澤がこの世にいないということが、しっくり来ないのだ。どうしても、入澤がまだ今日も、どこか自転車で走り回っているような、きれいな景色をみて、あの笑顔で深呼吸しているような、そんな気がしてならない。

 だからさ、入澤。いっしょにビール飲もうよ、ね。話聞いてよ。イリちゃん、25歳のまんまかい? おいらぁ、もう43だよ。君の教え子も、35、6だよ。驚いちゃぅよね。ははは。

 入澤、君、今もほんとにいいやつだよな。

 やっぱり、顔見なくてよかったのかな。

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