食べ物記者 齋藤訓之

農業、食品、外食に関するビジネスの記者・編集者、齋藤訓之(さいとう・さとし)のWebサイトです。

春節に考える日本人の「しあわせ」

春節の関帝

春節の関帝

 今日は春節。China人の家の門、玄関、壁に逆さに貼られる「福」の時は、天から「福」が降ってくることを表すとか。

 わざわざ逆さに貼ることで運動の方向を示しているあたり、とてもリアリティを感じさせる。以前、台湾でお寺や関帝廟を参拝した折、「お祈りするときは、まず自分の住所、氏名を心の中で唱えてからでなければ、神仏に願いは伝わらない。住所は所番地まで正確に」と言われた。それと同じ種類のリアリティだ。

 Chinaで言う「福」とは、主にたくさんの子供に恵まれ、家が大きく永く続くことを指すらしい。これまたリアリティたっぷりな話で、食べ物に不自由せず、健康な様子と、それによってもたらされるうれしい結果。物理的、生物学的に満ち足りていることが、「福」であるらしい。

 その「福」の獲得を助けてくれるのが、関帝廟に祀られる律儀第一の関羽。信用こそが、現世にあり続ける一家の幸福の源泉ということなのだろう。

「福」の意味は、Chinaでとほぼ同じ意味が日本にも伝わっていると思うけれど、日本人にとっての「しあわせ」の感覚というのは、どうも“家の繁栄”というものからは少し離れたところにあるのではないか。

 家を守るのは、一種の制度として、という感覚であるように思う。家族も含めて、そのようにいかんともしがたい制度に縛られた現世にいる“私”の魂をいかに救済するか――「しあわせ」を求める眼差しは、将来の家の姿よりも、三世(現在、過去、未来)の構成員それぞれの霊性の問題に向けられているように思う。日本人の「しあわせ」は、そのように、実は意外と個人的な問題、というか個体ごとの問題であるように、思う。

 だから、儒教よりも仏教が浸透しやすかったのでは。いや、それは話が逆なのか。

 で、日本人の「しあわせ」が一人ひとりの問題であるところに持ってきて、霊性じゃなくて物理的、生物学的な充足を求める国民になってくると、これは救いがないなー。物欲と性欲にドライブされた一匹狼の集団でしょう、それ。

 何教でもいいから、一人ひとり宗教を持つなり、持つか持たないか悩んだりするぐらいは、してないといけないんではないかなー。

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