食べ物記者 齋藤訓之

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怠惰に暮らしていることへの想像を超える罰

[caption id="attachment_1254" align="alignright" width="144"]観音様は三十三に姿を変えて「はよしなはれや」と言っている、ような 観音様は三十三に姿を変えて「はよしなはれや」と言っている、ような[/caption]

 今年9月、大学時代の後輩が亡くなった。相当に速く進行するガンだった由。入院したことも、亡くなったことも、大勢の職場の人たちに送られて葬儀が終わったことも、全部終わった後に知った。

 私が3年のときの1年生。同じ民俗研究会に所属。かわいらしい女性で、人とはちょっと違うところに気付く聡明さ、面白いことを言って人を笑わせる楽しげなところがある半面、あらゆることを真剣に考えて、理解するまで悩み続けるようなところがあった。それで一目置いていたというよりは、尊敬していた。

 卒業に際しての追い出しコンパで、後輩たちが卒業生に寄せ書きを作ってくれるのが恒例。そのすみっこに、彼女はとてもありがたいことを書いてくれていた。「大きな花を咲かせて」、その知らせを楽しみにしているといった趣旨のことを、とても簡潔に書いてくれていた。

 それから20年、起伏の激しい人生を楽しませてもらっているけれど、何があっても前向きでいられたのは、「ほらね!」と、彼女が書いてくれたことに応えて見せてお礼をしたいという気持ちがあったことが、結構大きいと思う。

 しかし、全然間に合わない。まだ、なあんにもできていない。相手が亡くなっては、お礼どころか、頑張っているふりをしてみせることも、言い訳することもできない。怠惰であることで、とんでもない罰を受けることになってしまった。

 グルメ杵屋の椋本彦之さんが、今年6月に亡くなっていたと知ったのも、すべて終わった後。私は新聞のどこを見ていたのか。

 椋本さんについて書いた「笑ってまかせなはれ」という本があって、これは「日経レストラン」で連載したものをベースに書籍にしたもの。連載は私が担当した。書籍にする前提でスタートし、著者と一緒に何度も大阪におじゃまして、無理やりたくさんのお話をうかがった。

 いよいよ書籍化の作業に入るという段階で、私は「日経レストラン」を離れ、ブランドに点数を付けてランキングする「ブランド・ジャパン」の企画に当たることとなった。椋本さんと著者に申し訳なかったし、突然その仕事を引き継いでもらった現編集長の遠山敏之さんにも申し訳なかった。

 椋本さんは楽しい思い出は大事にする一方、仕事などについて過去を振り返って自慢のタネにしたりするなどは全く得意でない人だった。いつも、今この瞬間と先のことを一生懸命に考えていらした。

 生活は質素。古い黒塗りの高級車をピカピカに磨いて、大事に乗っていた。一度、遅くまでお話を聞いた後、食事のために移動するというとき、「車を出すから」と言われ外で待っていたら、ご自身で運転されて、われわれが後部座席に座ることになってしまい、身が縮む思いだった。

 頼まれると嫌と言えない。周囲におされて木津市場の再生に協力することになった。バブル期に滅茶苦茶をしてすっからかんになり、消えてなくなろうとしていた大阪初芝学園にも、頼み込まれて理事長になっている。何の義理もないのに、若い人をつらい目にあわせてはいけないと、学校再建に個人の財産を捧げた。最近は水間鉄道再生にも協力していた由。

 その初芝学園の保護者や教諭の中に、椋本さんが「不正を主導し、学園に許し難い損害を与えた」として大阪地検に告発状を提出した者がいるという。昨年の暮れのことだ。

 事情をよく聞いて、新聞報道などでわからない部分はわかるようにしなければと、連絡をとろうと思っていた。ところが、結局のところ思っていただけで終わってしまった。そうして「忙しい、忙しい」と言いながらなまけていることで、私は計り知れないほど大きな罰を受けてしまった。

 椋本さんは、地域を大切にし、働く人を大切にし、だから勤勉を愛し、またそのために当然に無私でいられるという、日本古来の本当のリーダーの姿を示している一人だった。その名誉を伝えなければならない。これは私たちの問題として。

 万事急がなければならない。

 彼も我も、いつまでもこの世にいられるわけではない。

 中倉あずささん、椋本彦之さん、ご冥福をお祈りします。

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