食べ物記者 齋藤訓之

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胸を張って飲むインスタントコーヒー

 ムンバイの空港で。食事をする分ぐらいの金額をドルからルピーに換えた後、飛行機に乗るまでまだ数時間あったので、もう少し両替えして市内をぶらぶらしようと思った。ところが失敗。さっき両替えした銀行の窓口に行ってみると、開襟シャツの行員たちは机の上に斜めに腰掛け、お茶の用意をしているところだった。首を傾げて見せると、手に持ったティーカップを指差しながらウインクが返って来た。ティータイムに入ったのだ。

[caption id="attachment_1298" align="aligncenter" width="560"]ムンバイの海岸 ムンバイの海岸[/caption]

 そりゃしょうがない。

 やれやれと振り向くと、バゲージクレームから制服姿の小柄なインド人男性が出てきたところだった。彼もティータイムらしい。右肩の上に「エッヘン」と書いたフキダシをあしらいたくなるほど、胸を張っている。小柄な割にあまりに存在感があるので、僕はそのまま彼を眺めていた。

 表情は硬いけれど、なんとも言えないうれしさが口許にあふれている。軽く曲げた腕をやや風を切るように前後に動かしながら、空港ロビーを横切る。雑踏の中で、特別な「うれしさ」が服を着て歩いているようだった。

 やがて、バゲージクレームから見れば川のようなロビーを渡った向こう岸のバーにたどり着いた。何人かがチャイなどすすっている。

 何分か前、僕はそこでコーヒーを注文した。出て来たのはカップに入った白湯。ソーサーの上には粉末クリームと砂糖、そしてインスタントコーヒーの小さな袋が添えられている。「これか」と思いながら、全部を無造作にカップにぶちまけて、くるくるかき回して飲んだのだった。

 彼も、カウンターに手を置くと、よく通る声でコーヒーを言い付けた。変わらず胸を張っている。

 僕の時と同じように差し出された白湯のカップを受け取ると、彼はインスタントコーヒーの袋の封を切り、白湯の上にかざすや、そのままスーッと30cmばかり上に引き上げながら、優雅なしぐさで中身をカップの中に空けた。スプーンを手に取ると、いったん心持ちそれを前に突き出してからカップに沈め、滑らかな動作でかき回した。

 東京のホテルのバーでインスタントコーヒーを注文したら、目の前であんな風に作ってくれるんだろうなと思った。

 白湯がコーヒーになると、彼は背筋を伸ばしたままコーヒーカップを口許に運び、たっぷりと香りを吸い込んだ。僕との距離は5mほど離れているのだけれど、「うーん」とため息が聞こえて来そうだ。彼の背中は、紛れもなく「恐れ入ったか。おいらはインスタントコーヒーを飲む身分であるぞよ」と語っている。

 さっきは間違えた。ああやって飲むものだったのだ。

 インスタントコーヒーの価値が、豆を挽いて点てるコーヒーよりも低い。そういうのは日本ぐらいのものと聞いてはいたが、インドであの光景を見て、なるほどそういうものかと実感した。

 高い豆を日本が買い漁るからとか、日本人のように丁寧にドリップしないとか、いろいろな事情があるだろうけれど、確かに多くの国で、豆から淹れたおいしいコーヒーというものに出会わない。インスタントコーヒーに人気があるのは、そうした事情に加えて、きちんと管理された工業製品に対する信頼というのも強いのだろう。僕の子供の頃は、日本でも何につけ「手作りよ!」よりも「メーカー品だよ!」の方がウケが良かった。

 ちなみに、その後、ネスレの人に、同じ「ネスカフェ エクセラ」でも、日本で売っているものがいちばん味・香りがいいと教わった。そのように作っているという。材料、製法などの工夫で、日本人のうるさい嗜好に粘り強く対応しているということだろう。

 時々、訪ねてきた友人をだましてみる。友人の間ではコーヒーを淹れるのがうまいことになっているのをいいことに、こっそりインスタントコーヒーを出してみるのだ。やってみると、いろいろな人が「やっぱりうまいね」などと、よくだまされる。もちろん種明かしはするのだけれど、たいていの場合、「そうか。最近のインスタントコーヒーってうまいんだね!」という話になる。正確なところ、「最近」なのかどうかはわからない。僕の場合、「最近」よりも前にインスタントコーヒーを味わって飲んだ覚えがないからだ。

 インスタントコーヒーで「うまい」と言わせるコツが一つある。80℃程度のお湯を使って、出来上がりの温度がドリップで点てたときと同じぐらいになるようにするのだ。沸騰し立てのお湯を使うと、うまく香りがしない。香りが飛んでしまうのかも知れないし、湯気が熱くて香りを吸い込めないからかも知れない。インドでのように、先にカップに白湯を入れておくのもいい。

 もちろん、人をからかう時だけじゃなく、自分でインスタントコーヒーを飲むときにもそうしている。

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