食べ物記者 齋藤訓之

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映像で考える数学、映像で覚える記憶術

 村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の主人公は、「計算士」という変わった仕事に就いている。自らの脳を使って、情報を暗号化する仕事だという。

 この計算士、日頃の鍛錬のために風変わりな独り遊びをする。ズボンの左右のポケットに異なる金種の硬貨を入れ、手を突っ込んで左右同時に数えるのだ。そんなことができるのかどうか試したことはない。よくわからないが、そういうことだ。

 私の場合、こんなことをする。

 ものを数えるのが好きで、歩きながら意味もなく壁のレンガの個数を数えたり、意味もなく街路樹の本数を数えたり、意味もなく階段の段数を数えたり……。

 しかし、あまり数が多くなると、途中でわからなくなる。それで指を折ったりするのだけれど、人前だと何だか変に思われそうではばかられる。

 そこで編み出したのが、体の前後左右に順繰りに意識を集中して数える方法だ。「1」は前方、「2」は体の左側、「3」は後方、「4」は右側、2周目の前方が「5」……。他愛もない方法だけれども、結構重宝している。「6」は、数字だと意識に留めているのが面倒だけれども、「2周目の左側」だと何となく覚えやすい。

 時計回りではいけないか? そんなことはない。どうして左回りになったのかわからないけれど、なぜかその方がしっくりきている。陸上競技のトラックが左周りなのと関係があるのかも知れない。

 数学は、映像で考えるとわかりやすい。そう教えてくれたのは、高校の時に教わっていた数学の先生だ。

「私は子供の頃から映画が大好きなんです。だから何でも映像で考える」とおっしゃるその顔は、誰がどう見ても淀川長治瓜二つだった。それで最初はウケ狙いで言っているのかとも思ったが、自身時に小説もものすというロマンチストで、映画好きはうそではなかった。

 図形に関する問題でなくても、教科書では算式の羅列だけで解くように説明している問題でも、この先生はベクトルで解いたり、わざわざグラフにして考えたりした。込み入った関数の説明では、当時珍しかったポケコンで弾道計算ゲーム(大砲の角度と火薬の量を数字で入力して、着弾地点を数字で返してくるというだけのゲーム)を実演してくれたりした。

 ものすごく面白かったのだけれど、あの頃、その手は何だか邪道のような気がして、身を入れないでしまった。あそこでのめり込んでいたら、今はまた違った人生を歩んでいた気がする。

 しかし、今や算数にせよ数学にせよ、映像で考えるのは邪道どころか本道。本流中の本流だ。

 その証拠に、今の小学校では、数を数えたり、加減乗除をする際、タイルで考えるように教える。10枚のタイルで1本の棒と考え、それが10本あれば100。「256」という数は、100枚のタイルの集まりが2枚と、10枚の棒が5本、それと残り6枚のタイル、と考える。

 遠山啓氏が考案した「水道法」という算数教育で使われ出した方法だ(詳しくは、「数学の学び方・教え方」「新数学勉強法」などを参照)。

 私が小学校1年生の時、先生はまず指を折って数えることを教え、慣れたら指を見ないで数えよと教えた。その頃、「水道法」はまだ教科書に載るどころか、古い教師達の間では何か悪魔の方法のように扱われ、排斥されていた。

 もし水道法がもっと早くから普及していたら、今はまた違った人生を歩んでいた気がする。ものを数えるのに前後左右に意識を集中するなどという珍奇なことも思いつかなかったに違いない。

 いずれにせよ、ものごと皆、あるメソッドに基づいて映像で考えるとわかりやすくなる。

 このことは、算数や数学以外のことでも言える。物語や演説の内容を正確に記憶するのにも非常に有効だ。

 たとえば、ここまで書いたこの文章を、原稿を見ずにすらすらと人に話すにはどうすればよいか。

 それには、目の前に机の並んだ教室などを思い浮かべ、右の最前列に、ズボンのポケットに両手を突っ込んだ村上春樹を座らせ、その後ろに前後左右をきょろきょろ見ている自分を座らせ、窓の外にはレンガの壁の前に街路樹があってそこから階段が始まっている建物を配置する。村上春樹の隣には淀川長治が座り、ノートにベクトルとグラフを書き、左手にはポケコンを持たせる……。こういう映像を思い浮かべておいて話を始めればいいのだ。

 思い付きで書いているのではない。これをきちんと体系化した「記憶の劇場」という方法が、「記憶術」という本に書かれている。

 考案されたのは16世紀。同書では、その原形をローマ時代の方法にまで求めているが、恐らくはこの種の方法の発明は神話の誕生、つまりヒトの言語活動の発生とほぼ同時期であったに違いない。筆記具がない状態で大量の整然とした情報を記録するには、この方法以外に考えられないからだ。

 だから、誰でもこれをマスターすれば、どんな大部の小説でも論文でも、原稿を見ずにとちることなくスラスラと読み上げることができるだろう。

「速読」というものがある。と言ってもいろいろな流儀流派があり眉唾なものも多いけれど、これは本当にできそうだと感じる、ストイックなスタイルのものに「BTRメソッド」というものがある(「BTRメソッドによる速読トレーニングブック」「知的速読の技術 BTRメソッドへの招待」参照)。このメソッドでのトレーニングに、「イメージ記憶訓練」というものがある。ちょっと面白いゲームだ。

 紙に、「坂道―レコード」「自動車―焼肉」「風邪―指揮棒」といったおよそ関係のない言葉の組み合わせが大量に書いてあり、これを1分とかの短い時間眺め、その後別な紙の「坂道―(空欄)」の空欄を埋めていくというものだ。

 これをうまくやる方法はただ一つ。問題の紙を見たら漫然と文字を追うのではなく、すかさず、「坂道を転がるレコード盤」「自動車のボンネットで焼けている肉片」「咳をしながら棒を振る指揮者」といった映像に置き換えていくのだ。こうすると、自分でも驚くほど正確に記憶し、正答できる。

 このトレーニングの繰り返しで、文字を見た瞬間に映像をイメージする癖を身に付け、それによって本を読むスピードを上げる、というのが趣旨だ。

 これまた映像で考える御利益だ。

 繰り返すが、ものごと皆、あるメソッドに基づいて映像で考えるとわかりやすくなる。

 どの道トレーニングが大事なわけだけれど。

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