食べ物記者 齋藤訓之

農業、食品、外食に関するビジネスの記者・編集者、齋藤訓之(さいとう・さとし)のWebサイトです。

井田真木子さんに再会できなかったこと

[caption id="attachment_1490" align="alignright" width="192"]井田真木子 井田真木子[/caption]

 井田真木子さんと会ったのは、1984年、20歳のときだった。

 ある日の午後、この道の先輩から突然電話があった。双葉社の「MiL」という女性誌創刊2号の記事に急遽写真が必要になったので、そのモデルに来いと言うのだった。まあ、どんな写真かは想像が付いたのだけれど、面白そうなことには何でも首を突っ込むタチなので、すぐに市ヶ谷へ駆け付けた。

 お望みの写真は案の定、若い男とOLがこれからちょっといいことありそうな風情で夜の街を一緒に歩いているというものだった。私と腕を組んで歩くはずだった女性のモデルは、編集部に来て話を聞いて怒って帰ってしまったところだった。

 そこで代わりにと現れたのが、R某という編集プロダクションに所属していたOさんと、井田真木子さんだった。二人で別件の打ち合わせに来たところを、編集者に捕まったらしい。Oさんが私と腕を組んで歩く役になり、井田さんが撮影に立ち会った。

 実はお二人とも私より8歳ほど年上なのだが、どう上に見てもせいぜい2~3歳上、“大学の先輩”ぐらいにしか見えなかった。顔立ちと表情のそこはかとない明るさを覚えている。

 絵に描いたような“おじさん”編集者から、「ナンパ師風の服ではなくて、背広を着て来なさい」と指示され、私はアパートに引き返して着替えて来ることになった。再度二人と待ち合わせたのが、新宿駅東口。カメラマンのNさんも来た。東口でと言うのは、撮影を歌舞伎町でせよというおじさん編集者の指令に従ったからだ。

「『遊び好きのOLの縁談が破談になる』って企画からしてなんなんだけど、『遊ぶ=歌舞伎町』って発想が、やっぱり男性誌のおじさんたちの発想だよね」

 など話しながら、コマ劇場に至る路上に到着。すっかり日は暮れていた。

 Oさんと私が腕を組み、そこに立ち止まる。Nさんと井田さんは私たちの背後、ざっと30mほど離れて行ってしまい、どこからか高感度のカメラで私たちの後姿を狙った。こうなると、他の人から見て、Oさんと私が道の真ん中で何をしているのかは、まったく謎。誰しもが、引きつった笑いを浮かべながら私たちを眺め、通り過ぎて行く。「なにしてるんですかぁ~♪」なんてのぞき込んで行く女の子もいた。

 あのばかばかしい恥ずかしさ、なんとも懐かしい。

 撮影が無事に終わって新宿駅に向かって歩き始めると、井田さんが「せっかくだからビールでも飲んで行きましょう」と言って、4人で靖国通りの「DUG」に入った。

 井田さんが、「齋藤さんは何を目指しているの?」と聞いてくれた。きっと誰にでもこの質問をしていたのだと思う。人に対する興味の強い人なんだと感じた。

 私が「雑誌を作る仕事がしたい」とまで言ったのはいいとして、「貧乏でも忙しいことがいい」なんてことまで言ったから、Nさんはしらけて、というか嫌そうな顔になった。Oさんは何に対しても論評は加えず、うんうんという風にしていた。

 井田さんは、私のそんな話に、今風に言えば「イタイナ~」と思ったはずで、でもそれをなんとか取り繕ってくれるように「そういうこと大事だよ」と言って、Nさんや、Oさんにも「ね! ね!」という風に言ってくれた。

 そして「がんばってね」と。

 井田さん、Oさん、Nさんに会ったのはそれ切りだ。

 でも、あの晩以来、私はいつか井田さんに「ほら、お蔭様でこうなりましたよ!」と言ってみたくて、そればかり考えて仕事をしてきた気がする。

 最初に雑誌の仕事に就いたとき、井田さんに連絡して会おうかと思った。でも、なんだかまだ早いように思われた。まだ「こうなりましたよ!」と自慢できる内容ができていない。

 ある時、出張で全日空に乗って機内誌「翼の王国」を読んでいたら、お見合いの特集が載っていた。その中に、長年縁談の世話を業としているという品のよい夫人のインタビューが載っていた。柔らかく穏やかな筆致で、癒されるような小さなコラムだった。ふと見ると、末尾に(井田真木子)と署名があった。

 矢も盾もたまらず、手紙を書こうと思ったけれども、やはりまだ早いように思われた。

 それからまた何年か後。今度はたまたま買った「文藝春秋」に観月ありさ他、その頃人気の出始めた十代のタレントに関する記事が載っていた。あの頃、観月ありさの不思議な雰囲気が好きだったので、さっそく読もうと開いたら、筆者は井田真木子さんだった。

 これはもう、いよいよお会いしたい、と思ったが、やはりどうしても、まだ早いように思われた。

 それから転職するたびに、井田さんに会おうと思ったものの、その都度思い留まった。

 私がそうしてぐずぐずしている間に、彼女は、「プロレス少女伝説」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、「MiL」で会ったときとは全く違う立場にいた。

 気軽に手紙など書けないなと、そう思い込んでしまった。それは、たいへんな間違いだったと悔やんでいる。

 2001年春、同僚が彼女の死を知らせてくれた。

 あの後、いろいろな本やWebサイトを当たってみた。大宅賞以後の彼女の文章は、男っぽくて、理屈っぽくて、そのくせ暗示的なところがあって、正直言って私には読みにくくて敬遠していた。対談などを読んでも、あまりにも戦闘的で、つっけんどんで、読んでいて落ち着かない。「これがあのお見合いの記事を書いた井田さんなのか」と首を傾げた。

 そういうものをいろいろ当たっていくうち、彼女の晩年のポートレイトにも出くわした。

 ショートカットで、ごつごつした顔立ちを見て、「あ、僕の知っている井田さんとは別人だったんだ……」と思った。けれども、目もとには覚えがあった。そして「DUG」で、「私の名前、珍しいって言われるもの」と言っていたから、きっと私の知っている「井田真木子」と2001年3月14日に死んでしまった「井田真木子」は同じ人だったのだろう。

 修羅をくぐったと言えばそれまでだけれども。十数年の間にいろいろなことがあったと言えばそれまでだけれども。それがどんなものか、具体的に立ち入りたいとは思わないけれど。彼女の心の移り変わりの様子などは、ビールなど飲みながら聞いてみたかった。

 ぐずをやっていると、損が多いと改めて肝に銘じる。

 今年も命日が過ぎてしまった。

 井田真木子さん、ありがとうございます。合掌。

© Satoshi Saito, Kosetsusha, Inc. All Rights Reserved.
No reproduction or republication without written permission.