食べ物記者 齋藤訓之

農業、食品、外食に関するビジネスの記者・編集者、齋藤訓之(さいとう・さとし)のWebサイトです。

私とANA全日空――出会い、あこがれ、絶縁、再発見または和解 III

[caption id="attachment_1532" align="alignright" width="192"]乗るなら勉強しておいで 乗るなら勉強しておいで

 中学生になると、飛行機熱はさらに加熱した。父が新しいカメラを買って、前のものを私がもらった。私はそれを持って自転車に乗り、飛行場へ通った。

 当時の小遣いでは、フィルム代や現像代にはあまりお金を使えない。だから、「飛行機を撮りまくった」とは言えないけれど、とにかく飛行機を観たり写真を撮ったりするために、よく空港へ行った。カエルやカマキリやバッタやドジョウやザリガニを取りに行く日以外は、空港へ出かけたもの。

 中学2年のときに同じクラスになった、いちばん仲のいい友人が、このブログにときどきコメントを寄せてくれるクラウディという人。この人がまた飛行機が好きなやつ。

 クラウディの家は、私の家よりも空港に近い。それで、よく一緒に空港へ遊びに行った。小学生のころと同じように空港の中を探検したり、自転車で滑走路の端のほうまで行ってみたり、拡張した滑走路の下を通っている狭いトンネルを行ったり来たりということもした。

 離陸しようとする飛行機の後ろに立って、全開のジェット噴射を浴びるなんていう過激な遊びも発明した(まねをしないでください。危険です)。まあ、普段飛べないだけに、そうやって飛行機を体で感じようとしていたのだと思う。

 ほかにも、がらくたになったテキサン(T-6。練習機)が市内の自衛隊の駐屯地にあると聞いては出かけて行って、衛兵に「乗らしてください♪」と言って敷地に入って行ったり、そんなことばかりしていた。

 授業中も頭の中は飛行機でいっぱい。中学校時代のすべての教科の教科書の余白部分は、全ページ飛行機の落書きで埋め尽くされている。

 そう。あのころ、私はパイロットになる気まんまんだったのだ。何の? 航空自衛隊じゃない、東亜国内航空じゃない、日本航空じゃない。もちろん全日空のパイロットになる気まんまんだったのだ。

 成績は自慢できるようなものではなかったけれど、数学と理科だけは胸を張れる成績だった。対して国語と社会が苦手。これは先生が嫌いだった。英語は普通かな。もう一つ100点とAの連発は美術。先生が大好きだったのと、飛行機や広い空の絵ばかり描いていたから。

 でも、一つ不安があった。パイロットになるには、重大な問題があったのに、私はそれを無視しようとしていた。しかし、進路を考えるにつけ、だんだんとその問題を直視しないわけには行かなくなってきた。

 私は色弱なのだ。たとえば茶色と緑が並んでいると、色が違うということはわかるのだけれど、色の名前を言う自信がなくなる。たとえば、最近Webサイトを見ていると、オレンジの上に赤の文字を載せているデザインにときどき出合う。面白い配色できれいだなと思っていたけれど、実はその赤文字が茶色なんだと思い込んでいた。スポイトツールでその色を拾って画面いっぱいに広げるとそれが赤だったとわかる。複数の色が混在していたり、彩色した部分が小さいと、色の名前を言いづらくなる。天体観測で、白だの赤だの、異なる色の星があるものだと知ったときは、けっこう驚いた。

[caption id="attachment_1533" align="alignright" width="192"]こっちは何色だい? こっちは何色だい?

 さて、飛行機には燈火が付いている。尾灯はホワイト。右の翼端がグリーン。左がレッド。夜間でも、飛んでいる他の飛行機の翼端灯のグリーンとレッドがどう並んで見えるかで、その飛行機がこっちに向かって飛んで来ているのか、遠ざかっているのかがわかるわけだ。

 これを見分ける自信がなかった。赤緑色盲ではないので、わかるはずと言えばわかるはずなのだけれども、瞬時に判断できるかと言えば不安。なにしろ、星の色がよくわからないぐらいだから。

 トレーニングすれば、身体検査はパスできるかもしれない。でも、パイロットは人命と莫大な額の資産を預かる仕事だ。結局、あるときよく考えて、パイロットを目指すのはやめにした。

 飛行機ほどではないけれど船にも興味があって、一時、富山の商船高専への進学も真剣に考えたことがある。でも、飛行機の燈火は、船舶にならっている。だから船に乗っても当然色の問題はつきまとう。しかも、船には信号旗なんていうやっかいそうなものまである。やめた。

 また、理科は大好きだったけれども、化学は炎の色を見なければならない。物理もこれからは光の色がわからなければ面白くなさそう。生物も、頼まれてもやらないけれど医学も、いつも安定して色がわからなければ、何が起こるかわからない。

 どれも、私程度の色覚特性ならば、そうした方面に進んで活躍している人はいると思うけれど、大事なときに心配になったり、劣等感を味わったり、とんでもない失敗をするようなことは、私は嫌だった。それで、気持ちはどんどんいわゆる文系へ向かっていった。

 絵を描いていた。絵だって色を使うだろうと思うだろうけれど、絵は1枚1枚新しいルールを作るもの。緑が緑である必要はない。私が描く絵は、私が色のルールを作るのだし、私が美しいと感じない絵があるとすれば、それを描いた画家にセンスや、人間の多様性に対する想像力に欠けるというだけの話だ。

 と言いつつ、気持ちはさらにテキストへ向かっていった。そうなると、自由なビジュアルあり、テキストありでいちばん面白そうなのは雑誌ということで、今の私につながってきたというわけ。

 今の仕事には運命を感じるし、携わっていてうれしい感じも強い(恐らくそれを英語ではproudと言うのだと思う)。自分らしい仕事と思うから、この選択を後悔していない。でも、パイロットを断念したことは、負けは負けに違いないと、今も素直に思う。

(つづく)

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