パンクチュアルの美学――連絡船、喫茶店、カメラマン

函館港 想う伝える
函館港

1988年3月13日まで、青森―函館間を3時間50分で結んでいた青函連絡船。運行していたのは国鉄(日本国有鉄道)だった。

函館港

函館港

 青森―函館間の定期航路は、1873(明治6)年、北海道開拓使が開設したのが始め。この頃、官民のいくつもの定期船が走り出したが、その後は日本郵船の独占状態となり、明治期後半には1日1往復を運行していた。

 ところが、北海道開拓が進むに連れて、便数不足が問題となってきた。道内各地から鉄道で函館に着いた貨物が函館駅に溜まり、1日1往復では貨物がさばききれなくなってきた。とはいえ、日露戦争後の好景気で日本郵船は大忙し。とても辺境に回す船など用意できないという状態だったらしい。

 そこで日本鉄道株式会社(後に国有化)が、荷主の利益保護と鉄道発展を期して、自前の船を建造して青函定期航路の運行に当たることになった。そうして青函連絡船というものが生まれた(参考文献:「青函連絡船ものがたり」坂本幸四郎著、朝日新聞社)。

 爾来、青函連絡船は鉄道網の一部として運行されてきた。だから、青函連絡船の乗組員たちというのは、船乗りである一方、鉄道マンでもあって、他の船乗りとはちょっと違う独特の文化を持っていた。

 その一つが、時間の正確さ。ご存知の通り、鉄道はダイヤグラムによって運行を計画・管理している。なんでも、国鉄(今ならばJR)の時刻表に記された「○時○分」は、ダイヤ上では「○時○分0秒」「○時○分15秒」「○時○分30秒」「○時○分45秒」の4種類の○時○分に分かれていて、その違いを巧みに使い分けながら、定められたダイヤ通りの運行を死守するのだとか。これこそが日本の鉄道の正確さであり、その正確さが日本の鉄道マンの心意気なのだという。その心意気を、青函連絡船の乗組員も他の鉄道マンと等しく、あるいは陸(オカ)の人々には負けたくない意地として、彼ら以上に持っていたのだと聞いた。

 それを知ってからというもの、私は青函連絡船に乗るたび、到着間近になると腕時計を見るという妙な癖が付いた。函館なり青森なり、目指す港に入って岸壁が近付いて来ると、船は岸壁に横付けできるように回頭を始める。そして、プッシャーボートに押してもらったり、船腹についている補助スクリューを使ったりして、接岸させる。腕時計を凝視するのはこのタイミングだ。秒針が到着時刻の「○時○分」を回り、4種類の「○分○秒」を巡り切る間に、「ドォ~ン」というショックと共に船が接岸する。

レジスター(バイト先とは関係ありません)

レジスター(バイト先とは関係ありません)

 さすがです、船長!

 以前、父が連絡船に乗ったとき、天候の影響か、その船に接続する特急列車の延着かで、出港が2時間近く遅れたことがあったという。その時も、連絡船は定刻に到着したという。どうも船の最高速度は営業速度の倍ぐらい出たらしい。

 そんな青函連絡船を使って上京したり帰省したりしていた学生時代、アルバイトをしていた先の喫茶店のマスターは、朝、オープンの支度をしている最中は必ずNHKの第一放送を流していた。

 そして8時59分57秒、9時を告げる時報の「ポーン!」の前の、3つの「ポッ、ポッ、ポッ」が鳴り出す。マスターはその最初の「ポッ」でレジ前から入口にズイと踏み出し、2回目の「ポッ」でドアを開け、3回目の「ポッ」でドアにかけてある「準備中」の札に手を掛け、「ポーン!」と同時に札を裏返して「営業中」にして掛け直した。

 だから、あの店は、定休日の月曜日を除く毎日、必ず9時0分0秒丁度に営業を開始していた。

 美学ですね、マスター!

腕時計(全日空のオマケであり、松久氏とは関係ありません)

腕時計(全日空のオマケであり、松久氏とは関係ありません)

 柴田書店の先輩、カメラマンの高橋栄一氏(現在はフリーランス)。同じく先輩で編集者の二瓶信一郎氏と「NOBU TOKYO」に取材に行ったときの話。店の近くの駐車場に車を入れ、約束の時間の5分前に二瓶氏と合流。少しおしゃべりをして、アポイントを入れた時間キッカリにドアを開けて「こんにちはー!」と入店。

 すると、この日初対面だった松久信幸氏が、奥から満面の笑顔で飛び出して来て迎えてくれたという。高橋氏によれば、数え切れないほど持っているかっこいい時計を愛する松久氏――氏もまた、時間ぴったりが大好きらしい。

 高橋氏と二瓶氏、二人とも松久氏からいっぺんで好かれ、高橋氏は今日までに海外の出版社を含め、松久氏の本を8冊も手がけるに至った。

 やったね、栄ちゃん!

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