この文字とあの文字は同じその文字

この仏とあの仏は同じその仏。 エデンの東
この仏とあの仏は同じその仏。

こうしてコンピュータのモニタに映し出された文字は、最初、誰によって打ち込まれたかを考えると面白い。

この仏とあの仏は同じその仏。

この仏とあの仏は同じその仏。

 たとえば、私の苗字の難しい1文字目など。「齋藤様」とメールを打っていただいて、その「齋」の字は、その人が打ち込んでくれたものか、その前の私からのメールの署名からコピーしてくれたものか。私からのメールの「齋」の字だって、前に別な人が打ち込んでくれたのをコピーしたものかもしれない。

 電子的な「齋」の字は、もう、それがいつどこで誰が打ち込んだものかはわからない。それを区別するのは、もうあんまり意味がない。でも、考えると楽しい。「この『齋』の字は、16年前に東京都豊島区の池田さんのMacで、最初に入力されました」なんて……。

 私たちの体を構成する細胞の、さらにそれを構成する分子の、さらにそれを構成する原子。その原子核の周りを飛び回る電子。今、私がこの文章を打ち込んでいる指先の中にいる電子。それは、いつ、どこから来たものか。体を動かしている間は電気が流れている。ならば、電子もひっきりなしに、川の流れのようにあちらからこちら、こちらからあちらへと流れているに違いない。

 陽子でも中性子でもいいや。いま私の爪の先のどこかにある陽子。それと、あの輝く太陽にある陽子、月の石の陽子、北極星にある陽子、永遠に確かめることができない数百億光年彼方のある恒星にある陽子、それは同じものだ。

 昔いまし、今いまし。ここにあり、あそこにあり、どこにもあり。その、これとあれには区別がない。遙か彼方に、同じものがある。これが、あそこにある。ユニークネスを見出すとすれば、そのものにではなく、そのものがある場所と時間しかない。

 ジョーゼフ・キャンベルは、仏教の説明をするとき、喩えて言った。講堂の天井で光っている電球。その一つひとつは異なる電球だけれども、それらが発している光は同じものであると。

 電球の気持ちで考えてみる。

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