棚田の崩壊――新潟県中越地震で

押し流され倒壊した建物(2005年10月)。 壊れた世界
押し流され倒壊した建物(2005年10月)。

国内外の産地開発支援やコンサルティングをしているG氏から、2005年10月下旬に新潟県の小千谷市から長岡市旧山古志村へ向かった際の写真を見せてもらった(写真はいずれもG氏提供)。

 新潟県中越地震から1年を経て、復興未だならずというか、着手はまだまだこれから先というような場所が多数見られたとのこと。地元の人は、震災直後同様の惨状を説明しながら、「とにかく忘れられるのが怖い」と語ったという。

 お詫びするしかない。私も忘れかけていた。というよりも、忘れる以前にそもそもこういう状況とは理解していなかった。恥ずかしく申し訳ない限りだ。

 さて、G氏が地元の人から聞いてきた話に興味深いものがある。「タナダなんかやっていなかったら、ここまでひどくはならなかった」というもの。この地域の人々が言うタナダという言葉には、コイ養殖の溜池も含まれるそうだが、地震によって、そのタナダのある標高の高い位置の斜面が大規模に液状化し、鉄砲水となって、その下の斜面や麓を襲ったのだと言う。

  • 押し流され倒壊した建物(2005年10月)。

    押し流され倒壊した建物(2005年10月)。

  • 棚田の比較的軽微な崩壊(2005年10月)。

    棚田の比較的軽微な崩壊(2005年10月)。

  • 崩れた山の斜面(2005年10月)。

    崩れた山の斜面(2005年10月)。

  • 震災前の付近の溜池(2004年9月)。

    震災前の付近の溜池(2004年9月)。

 地震があったのは水稲の収穫後で、一般的な意味での棚田(水田)には、ほとんど水はなかったはずだ。ただし、コイがいる溜池には当然水はあった。これがなければ、あるいは被害はもう少し小さかったのかも知れない。

 とは言え、では地震が起こったのが、溜池以外のタナダ、水田にも水がある季節であったら、一体どのようなことになっていたのだろうか。

 他の水田や畑と同じく、棚田は自然の産物などではない。土木工事で人間が作り上げた生産設備だ。森であった山の斜面で、木を伐り倒し、張り巡らされた木の根を抜き、階段状に土を盛ったり石を積んだりし、耕して水を湛える。それは、土を支えていた植物を取り除いた上で、頭上に莫大な量の泥水を蓄えることを意味する。

 私なら、絶対に棚田のある山の麓には住まない。

 写真集などでいろいろな棚田の写真を見ると確かに美しい。私も好きだ。息を呑むような光景に震えることもある。かつて歯を食いしばって頑張り、気の遠くなるような開墾作業に従事した人々の、熱意、執念、苦労、智恵を想うと、さらに感動する。

 しかし今日、全国津々浦々のほとんどの棚田は、水稲作の方法としては経営的に成り立たない状況だ。やっている人の多くは、他に仕事を持っている。なんとか維持しようとして、観光農園化したり、児童生徒の体験学習を受け入れたり、ボランティアを導入したり、ということもしている(お金を集める仕組みも作っている)。

 そのような、経済的な裏づけに欠ける設備なり景観なりを、地震で崩壊するかもしれないという致死的なリスクを冒してまで残すべきなのかどうか。ましてや、危険な場所に善意の一般の人々、とくに子供たちを動員することは躊躇されるべきことだ。

 例えば田植えなり草取りなりをしてもらうとすれば、それは当然湛水期ということになるだろう。地震発生時の危険性について考えれば、棚田の田植えと春先の雪山歩きとの違いは、単に確率だけのこととも思える。史跡には崩落等の危険に備えて立ち入り禁止の場所もあるが、各地の棚田それぞれはそれと同じ考え方をもって検証されているのだろうか。

 生生流転、諸行無常に Let it be.――美しいと感じるものをいつまでも残したいとか、先祖が頑張って作ったからとか、そうした、人間ならではのわがままは捨てて、山の斜面を何十年ぶりかあるいは何百年ぶりかに、もと通りの生態系に戻す事業に着手してもいいはずだ。

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