「虚礼廃止」の語の荒々しさ

プレゼント! 想う伝える
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お歳暮の季節――といったら、ちょっと遅いか。この後は、クリスマスプレゼントに、お年賀にお年玉。なにかと贈ったり贈られたりという季節。私はと言えば、仲人に立ってくれた人をはじめ、人生の師と恩人幾人かに、おかげさまで息災に過ごしていますというしるし程度にお歳暮を贈る程度で、あまり悩みはない。もっと悩んだほうがいいのかもしれないけれど。

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 私は贈り、贈られという形でかかわったことはないけれど、世の中には絶対に贈答禁止という会社もある。それはそれぞれの考え方でいいのだが、ひと頃流行った「虚礼廃止」なる言葉の荒々しさには辟易とする。

 いつ、誰が、それを「虚」と決めたのか。本当に「虚」を送りつける人もいるのだろうから、それにもあきれるけれど、なんでもかんでも「礼」を「虚礼」と決めつける乱暴な人にもぞっとする。

 今はどうかわからないが、柴田書店の「ホテル旅館」では、取材先に茶菓などちょっとした手土産を持っていくのが編集部のならいだったようだ。だいたいが地方出張で、相手(ホテルや旅館の経営者、幹部)は他の地域の情報に触れたいと思っている人。それはそれでいいのだろう。

 ところが、「ホテル旅館」から「月刊食堂」に異動した人が、たぶん初仕事で外食の会社の取材に行った折、手土産を持って行って相手にびっくりされた由。外食はパートナー企業との癒着に敏感な業界ゆえ、持ってこられた人の戸惑いは想像に難くない。同僚たちはその逸話を酒の肴にして飲んでいたものだけれども、そりゃあちょっといじわるだよね。知らずに持って行ったその人に、誰か教えてあげたらよかったのにと同情する。

 農家に取材に行くとき、この道の師、農業技術通信社の昆吉則社長は必ず茶菓を買っていく。他の農業関係の媒体の人も、そうする人が多い。メディア関係者だけでなく、農家を訪ねる人はたいていそうする。

「農業経営者」の編集に携わり始めた頃、私はそれにレジスタンスしてみた。生業ではなく、家業なり事業を行う経営者としてのその人に会うのだから、他の一般の会社へ取材に行くときに茶菓なんか持っていかないのと同じく、手ぶらで何が悪いというか、手に何かぶら下げているほうがヘンだと思ったからだ。

 ところが、なかなかこれがそうはいかない。なんというか、お互いしっくり来ない。話していてもぎこちない。「ご挨拶としてちょっとした手土産があって、それでまず最初の心の扉をちょっぴり開く」というのが、どうも我が国土着の心の働きらしいと、だんだん気付いていく。

 そういうことを、昆社長に話してみたら、「あなたが一人の“経営者”(昆社長独特のとらえ方による表現。つまり、当時の私は、農業技術通信社からサラリーをもらうという事業を展開しているバーチャルな自営業者ととらえる)として農業の経営者に会いに行くんだから、経営者同士が会うときにどうするのがいちばんいいかと考えればいい」と教えてくれた。これで納得。

 要は空気を読むことなのだ。相手が「贈答禁止」と言う人なら持っていかなければいいし、手ぶらで行くと怪訝な顔をしそうな人なら持っていけばいい。そして、どのぐらいの金額で、どのようなものが気が利いていると思われるか、相手が喜びそうか、あれやこれや考えておく。普段からどんなお土産があるかの情報にもアンテナを張っておく。

 どんなものだと自然で、過不足がなく、「こんにちは」「お天気がいいですね」といった言葉と同程度に受け止められるか。どんなものだと、相手がびっくりして逆に警戒してしまうのか。――ある地方の農家が、「謝りに行くときは虎屋のようかんて決まってるんでしょ?」と言っていたけれど、そういう記号を決めている人もいるのかもしれない。

 それやこれや考えると、こういうものは、挨拶を交わすことや、和歌の応酬と同じような呼吸があるものだと分かる。見た目にはモノの交換だけれども、限りなく言葉の交換に近く感じる。上手にやるには、心と知識を磨き、経験を積まなければならない。

 それを卒なく、いやみなく、さりげなく、しかも印象深く、美しくできることが「洒落ている」ことで、その達人を大人と呼ぶのだろうと分かる。

「虚礼廃止」という言葉には、伝統的なものは全部悪と決めつける「迷信」という言葉を発明するのと同じ粗野な様子を感じるし、全面的に贈答禁止をわざわざ言うことには、大人を育てられない寂しさを感じる。

 なお、取材に来た記者には金品を与えないでください。我々、子供ですから。

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